承前:準備⑦

『批評と臨床』続き

「裁きと訣別するために」

→ 『批評と臨床』は「法」という主題はほとんど登場せず、「裁き=判断」が前面にせり出してくる。一貫性があると考えるべきか、別の主題だと見なすべきか。
→ この論考は断定が多いのが難点。

251頁

ギリシア悲劇から近代哲学に至るまでのあいだ、練り上げられた発達をみるのは、裁き=判断力[jugement]に関する教説の総体である。悲劇的であるのは、筋立てよりもむしろ裁きであり、ギリシア悲劇が創設しているのは何よりもまず一つの法廷なのである。カントは真に判断力の批判と呼ぶべきものを発明しているわけではない。というのも、あの本は反対に、ある途方もない主観の法廷を打ち建てているからだ。ユダヤキリスト教の伝統からの断絶において、批判を先導しているのはスピノザである。そして彼は、その批判を継承し再び指導させてくれる四人の偉大な弟子を持った。すなわち、ニーチェ、ロレンス、カフカアルトーである。」

252頁

ニーチェが取り除くことができたもの、それは裁きの条件、すなわち「神性に対して負債を持っているという意識」、それ自体無限のものと化し、したがって支払い不可能なものと化すかぎりにおける負債の冒険である。人間は裁きに訴えはしない。人間が裁き得るものであり人を裁くのは、ただその存在が無限に服従しているかぎりにおいてのみである。つまり、負債の無限性と存在の不滅性とが「裁きの教説」を構成すべくたがいに参照し合っているようだ。みずからの負債が無限であるなら、なるほど債務者は生き延びなければならない。」

→ 『ニーチェと哲学』、『アンチ・オイディプス』と連動。

252‐253頁

「四人[ニーチェ、ロレンス、カフカアルトー]にとって、裁きの論理は、最も陰鬱な組織の発明者としての司祭の心理と混じり合ったものである。――私は裁きたい、私は裁かねばならぬ……。人は、まるで裁きそれ自体が遅延され、明日に延期され、無限に先送りされているかのように振る舞うことはない。反対に、繰り延べ、無限へと運ぶ行為こそが、裁きを可能にするのである。つまり、裁きはその条件を、時間の秩序の内部で存在と無限とのあいだに仮定された一つの関係から手に入れるのだ。この関係の中に身を置く者に、裁く力そして裁かれる力が与えられるのである。認識判断でさえ空間と時間と経験のある無限性を内包しており、この無限性が空間と時間の内部に諸現象の存在を限定しているのである(……)。だが、認識判断は、この意味において、道徳的かつ原初の神学的形式を前提としており、その形式によって、存在は時間の秩序にしたがって無限へと関係づけられていたのである。すなわち、神に対して負債を持つ者としての存在者。」

→ 『カフカ』における「パラノ的法」との関連性。
→ 認識判断の前提に道徳的かつ神学的形式があるということ。ここが知りたいところ!

253‐254頁 裁きの教説に対する残酷のシステム

「存在者たちは、ただ時間の流れを構成するにすぎない有限な諸関係にしたがって、たがいに敵対し合い、償い合う。ニーチェの偉大さは、債権者‐債務者関係こそがあらゆる交換に対して第一次的なものであるということを、いかなる躊躇もなしに明示したことにある。人はまず始めに約束する。そして負債とは、何か神といったものに対して生じるものではない。そうではなくそれは、当事者間を移行し、状態の変化を惹き起こし、当事者のうちに何か――すなわち情動――を作り出す、そんな諸力に応じて、相手に対して生じるものなのである。すべては当事者間において生起するのであり、中世の神明裁判も神の裁きではない――と言うのも、そこには神も裁きもないからだ。(……)すなわち、そこにはあらゆる裁き=判断力に対立する一つの正義が存在し、その正義によってさまざまな身体がたがいに刻印をしるし、一つのテリトリーの内部で循環する有限なブロックにしたがって、負債は身体にじかに書き込まれるのだ。(……)それは、まさに残酷のシステムと言うべきものであり(……)」

→ 『アンチ・オイディプス』に同様の記載あり。この時点では負債は無限ではなく有限であり、身体刑の苦痛によって返済される(残酷のシステム)。負債が無限になり、それを個人に負わせるシステムがオイディプス三角形とされる。

255頁

「残酷のシステムが、みずからを触発する諸力とともに存在する身体の有限なる諸関係を言い表しているのに対して、無限の負債の教説のほうは、さまざまな裁きへの不滅の魂の諸関係を規定している。いたるところで裁きの教説に対立しているのは、残酷のシステムなのである。」

→ 残酷は身体に関わるシステム、裁きは(不滅の)魂に関わるシステム

255頁

「裁きは、(……)負債が神々に対して生ずることが必要であった。負債が、われわれがその保有者である諸力との関係においてではなしに、われわれにそれらの力を与えてくれると見なされた神々との関係において存在する必要があった。(……)裁きの教説の諸要素が前提としているのは、神々が人間に宿命を与えること、そして、人間がその宿命によってこれこれの形式にふさわしく、これこれの組織的な目的=終末にふさわしいものであることである。」

256頁

「人間は、裁くと同時に裁かれるのであり、裁くことと裁かれることは同じ悦楽なのである。」

256頁

「究極的には、自分自身でみずからの宿命を引き受けかつ自分自身でみずからを罰するということが、新しい裁きのあるいは近代的悲劇性の特徴となる。」

259頁

「残酷の肉体的[physique]システムは、さらに第三のアスペクトのもと、すなわち身体の水準において、裁きの神学的教説に対立している。それは、裁きが諸身体の真の組織化[organisation]を前提としており、それによって働くということだ。諸器官[organe]は、裁き手でありかつ裁かれる者である。そして、神の裁きとは、まさしく無限に組織化する権力のことだ。そこから生じてくるのが感覚器官に対する裁きの関係である。これとはまったく別なのが、肉体的システムによる身体である。この身体は、それが一個の「器官組織[organisme]」ではないだけに、そして、人がそれによって裁きかつ裁かれるあの諸器官の組織化を奪われているだけに、いっそう裁きの手を免れる。神はわれわれに一個の器官組織を作り、女はわれわれに一個の器官組織を作った――そこにおいて、われわれは生命力のある生き生きした身体を持っていた。アルトーが呈示しているのは、あの「器官なき身体」であり、それは、神が、それなくしては裁きを実行できまい組織化された身体を通用させるために、われわれから盗み取ったものだ。」

→ 裁き‐組織化‐諸器官 / 残酷‐physiqueなシステム‐器官なき身体。なぜ「裁き」は有機体論になるのか!?
→ ここでphysiqueという場合は、情動=触発に関わる秩序のこと
→ 法と神学の関係性は?

260頁

「非‐器官組織的な生命力とは、知覚し得ぬさまざまな力ないし潜勢力への身体の関係のことであり、その力ないし潜勢力は身体を捕らえており、あるいは身体はそれらを捕らえている(……)器官なき身体を獲得すること、みずからの器官なき身体を見出すことは、裁きを逃れる手段である。それこそはすでにニーチェの計画であった。すなわち、身体を生成において、強度において、触発し触発される力として、つまりは力への意志として、定義すること。」

261頁 combats-contre / combats-entre

「闘い、至るところに闘いがあり、闘いこそが裁きにとって代わるのである。そしておそらく闘いは、裁きに対して[contre]、つまり、裁きの諸審級と登場人物たちに対抗して、出現する。しかし、より根本的には、われとわが当事者のあいだ[entre]、征服しあるいは征服される諸力のあいだ、それらの力関係を表現する諸潜勢力のあいだにあって、闘いであるのは闘争者彼自身なのである。(……)〈他者〉に対する闘いと〈自己〉のあいだでの闘いとを区別する必要があるのだ。対抗する‐闘い[combats-contre]はひとつの力を破壊しあるいは押し返そうとする(……)、だが、あいだにおける‐闘い[combats-entre]のほうは、反対にひとつの力を捕らえてそれを自分の力にしようとする。あいだにおける闘いとは、他のさまざまな力を捕らえ、ある新しい集合の中、ある生成の中で、それらにみずからを結びつけることによって、一つの力がおのれを豊かにしていくプロセスなのである。」

→ 離接

264‐265頁 裁き/決断

「決断することは、裁きではないし、裁きの組織的帰結でもない。それは、われわれを闘いの中に引きずり込む諸力の渦から突然力強く湧き出てくる。」

266頁

「裁きは、あらゆる新たなる存在様態が到来するのを妨げてしまう。というのは、新しい存在様態とは、自分自身の力によって創造されるものだからであり、つまり、自分を捕捉するすべを知っている力によって創造されるものだからであり、それが新しい組み合わせを存在させるかぎりにおいて、それ自身で価値を持つものであるからだ。(……)いったいどのような鑑定判断が、芸術において、来るべき作品に関わり得ようか?われわれは、他の存在者たちを裁く必要はない。そうではなくて、それらがわれわれにふさわしいかふさわしくないか、つまりそれらがわれわれに力をもたらしてくれるか、それともわれわれを戦争の悲惨や夢の貧しさや組織化の厳格さに差し向けてしまうかを、感じ取ることこそが必要なのだ。」