承前:準備⑧

スピノザ:実践の哲学』、1981年(鈴木雅大訳、平凡社ライブラリー

「第二章 モラルとエチカのちがいについて」
44頁

「かくて〈エチカ〉が、〈モラル〉にとって代わる。道徳的思考がつねに超越的な価値にてらして生のありようを捉えるのに対して、これはどこまでも内在的に生それ自体のありように則し、それをタイプとしてとらえる類型理解の方法である。道徳は神の裁きであり、〈審判〉の体制にほかならないが、〈エチカ〉はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまう。(……)こうした道徳的価値の錯覚は、意識の錯覚と軌を一にしている。そもそも意識は無知であり、原因や法則はもちろん各個の構成関係やその合一・形成についても何ひとつ知らず、ただその結果を待つこと、結果を手にすることに甘んじているために、まるで自然というものがわかっていない。ところが、理解していなければ、それだけで簡単にものごとは道徳と化す。(……)アダムの場合も、その問題の木の実と出会えば自分の身体がどうなるのかという構成関係の法則を理解していないから、神のことばを禁止命令として受けとるのである。」

→ 『スピノザと表現の問題』では強調されることのなかった「裁き」「審判」がここで主題化。

45頁

「道徳的な法とは、なすべきこと・あるべきことであり、服従以外のなんの効果も、目的ももたない。そうした服従が必要不可欠の場合もあれば、その従うべき命令が十分根拠のあるもっともなものである場合もあることだろうが、そんなことは問題ではない。問題は、こうした道徳的もしくは社会的な法が私たちになんら認識をもたらさず、何も理解させてくれないということだ。最悪の場合には、それは認識の形成そのものを妨げる(圧制者の法)。最善の場合でも、法はただたんに認識を準備し、それを可能ならしめるにすぎない(アブラハムの法、キリストの法)。この両極端の中間では一般に法は、その生のありようゆえに認識するだけの力をもたないひとびとのもとで、認識の不足を補う役割を果たしている(モーセの法)。だが、いずれにしても認識と道徳とでは、〈命令〉に対する〈服従〉の関係と〈認識されるもの〉に対する〈認識〉の関係とでは、そこに本性上のちがいがあることはおおうべくもない。神学の悲劇、神学の有害性はスピノザによれば、ただたんに思弁的な性質のものではなく、実践面でそれがこの私たちにそうした本性上異なる二つのものごとの混同を引き起こすところから生まれている。」

→ 神学‐道徳‐法‐裁きという概念布置の明確な提示(ただし内容は漠然)
→ 『批評と臨床』の「裁きと訣別するために」におけるカント批判と連動
→ 合理的な認識の根本に神学(聖書)があること
→ 原因‐結果の認識が、命令‐服従の認識と混同されること
→ 江川隆男『アンチ・モラリア』で説明のなかった部分と連動


「第三章 悪についての手紙」
73頁

「まさにその意味で、存在は試練である。しかしそれは物理的・化学的な実地の試練であり、実験であって、〈審判〉とはまるでちがう。ブレイエンベルフとの全往復書簡をとおして神の裁きというテーマが焦点となっているのもそのためだ。はたして神は、審判者として〈善〉〈悪〉により裁きをくだすような、そんな知性や意志、そして感情といったものをそなえているのだろうか。実際には私たちは、どこまでも私たち自身によって、そのときどきの私たちの状態にしたがって、裁かれるにすぎない。そうした個々の状態の物理化学的な実地の試練こそが、道徳にもとづく審判とはまったく逆に、〈エチカ〉をかたちづくっているのである。」

「第四章 『エチカ』主要概念集」
126頁

「理性状態において、法とは永遠の真理、いいかえれば各人の能力の全面的な展開に向かう自然の法則である。共同社会の状態においては、法は、各人の力能を制限あるいは制約し、命令や禁止としてはたらき、全体の力能が個人の力能を越えて強大なものとなればなるほど、この傾向は強まる。これは、ひとえに服従服従の根拠にかかわり、善と悪、正義と不正義、褒賞と懲罰を決める「道徳的な」法に他ならない。」

180頁 スピノザ記号論と法の関係について