承前:準備⑥

『批評と臨床』、1993年(守中高明ほか訳、河出書房新社

ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ
ドゥルーズスピノザの四人の弟子と認めるうちのひとり、ロレンスを扱った論文。
キリスト教を裁きの権力形式として論じている。

82‐83頁

「最後にまた、とりわけこの衆の心は最終的な究極の権力を望んでもいる。神々に訴える権力ではない。上訴不可能な、他のすべての権力がそのもとに最終的に裁かれてしまうような、ある神の持つ権力である。(……)『黙示録』とともにキリスト教は、〈審判〉のシステム、という全く新しい権力像をつくりだした。画家ギュスターヴ・クールベ(……)は、夜になると目を覚まし、「裁きたい、裁かずにおられるものか」と叫ぶ人々のことを語っている。」

84‐85頁

「そのためにキリストはいやでも復活させられる。注射され、生き返らされるのだ。あれほど人を裁かなかった、裁こうとしなかったその彼が、いまや〈審判〉の体制の要の歯車に据えられる。それというのも、ほかならぬこの裁く力、このおぞましい能力が心の主導権を握ったところにこそ、まさしくこの弱者たちの復讐、この新しい権力の成立のポイントはあったからだ(……)。『黙示録』は勝利し、以後二度と私たちはこの裁きの体制の外に出ることがなかった。」

101頁

「象徴は行動と決断のプロセスであり、(……)寓意の思考はもはや行動的思考ではない。絶えず延期し、後にしようとする思考。それは決断の「力」[la puissance de décision]を、裁きの「権力」[le pouvoir du jugement]で置き換えたのだ。」

105頁

「裁きの体制をつくりあげるためには、それらすべて[キリスト、パトモスのヨハネ、聖パウロ]が必要だったのではないか。個人〔個の心〕も自殺し、集団〔衆の心〕も自殺するのである。ともどもに自己栄化の歌を奏でながら。死を、死を。それが唯一の審判であった。」

107頁
「関係の物理学」と「関係の論理学」を比較して、後者を批判。
→ 関係の論理学に関して

「連結は、私たちはそれを原因から結果への、あるいは原理から帰結への関係に変えてしまう。この生きて流れている、流れが結び合う世界を私たちは抽象して、主語、目的語、述語、論理的諸関係からなる、生気を欠いた複製の世界をつくりあげた。私たちはそうやって審判[判断]のシステムを抽出してきたのだった。」