承前:準備⑤

カフカ』1975年(宇波彰ほか訳、法政大学出版局)← 翻訳が古いため、少し修正してます。面白い本なので新訳が出てほしいです。

「訴訟」「流刑地にて」「万里の長城
→ 空虚で内容のない純粋なフォルムとしての法。法の対象は不可知。『マゾッホトサド』で触れられたカントとカフカの関係を展開したもの。

87頁

「したがって、法は判決においてのみ言表することができ、判決は刑罰においてのみ知られることができる。誰も法の内側を知っていない。」

87-88頁

「カントは、法についてのギリシャ的な考え方からユダヤキリスト教的な考え方への転倒に関する合理的な理論を作った。つまり、法はそれに対してひとつの素材を与えるような、あらかじめ存在する善にはもはや依存せず、善が善として依存する純粋なフォルムである。法がそれ自体を言表する形式上の諸条件のなかで、法が言表するものが善である。」

90頁

つまり、掟の前の門番の話はきわめてあいまいなままであり、そしてKは、この話をする聖職者が司法機関の一員であり、刑務所付の聖職者であり、他者たちのひとつのセリー全体の一要素であり、このセリーが、彼のところで終るいかなる理由もないので、どんな特権も持っていないことに気がついている。

カフカには「掟の門前」という注目されるテクストがあり、それについていくつか解釈があるが、D=Gはこのテクストが「訴訟」という長編小説の一部に組み込まれていることに注目する。そのなかでこの「掟の門前」の話が、主人公であるKに対する刑務所付き聖職者の説教として使われていることをD=Gは指摘し、Kあるいはカフカにとってこの説教はパラノイア的なものであり、かつ「どんな特権も」なく、カフカの作品制作における踏み台のひとつだろうと解釈している。「その話を誰が誰に語っているのか」から展開される語用論的な解釈。

90頁

「想定されている、法の超越性という視点から見るならば、罪責性・不可知のもの・判決または言表と法とのあいだには、或る必然的な関係があるはずである。実際のところ、罪を犯したにせよ、罪がないにせよ、すべての者にとって、あるいはそれぞれの者にとって、罪責性は法の超越性に対応するアプリオリなもののはずである。」

91頁 法の超越性という特性に対するカフカによる批判

・あるかもしれない罪をあれこれ考えるのを最初から一切拒否すること。
・罪責性は外見的な運動にすぎない。
・法は、その見せかけの超越性が要求するものによっておのれを言表するのではない。
・言表と言表行為が、言表する者の内在する力の名において法を作る

94頁

「つまりカフカは、社会的表象から言表行為の編成、機械状編成を抽出し、それらの編成を分解することを提案する。すでに動物を扱う短編群において、カフカは逃走の線を描いた。しかし彼は〈世界の外へ〉は逃走せず、むしろ彼が世界とその表象とを逃走させ、それらの線上をたどったのである。」

96頁

「ところで、その罪責性と不可知性という従者を伴った超越的な法の表象は、このような抽象機械であるように見える。」

99頁

「また、法があると考えられていた場において、実際には欲望があり、欲望だけがあるという第二の印象はもっと重要である。[「訴訟」における]司法機関[justice]は欲望であって、法ではない。(……)「訴訟」全体に欲望の多原子価性[polyvocité]が貫流しているのであって、これがこの作品にエロチックな力を与えている。」

102頁

「したがって、法の超越性という考え方をきっぱりと捨てなくてはならない。もしも最終審が到達されないもの、表象されえないものであるとするならば、それは否定神学に固有の、無限のヒエラルヒーによるものではなく、欲望の隣接性によってである。この欲望の隣接性によって、出来事はいつでも、隣りの事務室で起こるようになる。事務室の隣接性、権力の分節性が、審級のヒエラルヒーと権力者の卓越性とのかわりになる。(……)無限の超越性ではなく、内在性の限りない領域。(……)法の超越性は、抽象的な機械だった。しかし法は、司法機関の機械状編成の内在性のなかにのみ存在する。(……)欲望のなかには裁くべきものは何もない。(……)司法機関も単に欲望に内在するプロセスにすぎない。プロセスはそれ自体がひとつの連続体であるが、それは隣接性からできている連続体である。」

122頁

「今や、欲望は二つの共存する状態のなかに存在しようとしている。すなわち一方では欲望は或る分節・事務室・機械または機械の或る状態のなかで捉えられようとし、内容の或るフォルムと結びつき、表現の或るフォルムに結晶化されようとする。(資本主義的欲望、ファシズム的欲望、官僚制的欲望など。)他方、またそれと同時に、欲望はすべての線上に展開されようとする。そのばあい、欲望は自由になった表現に導かれ、変形した内容を導き、内在性または司法機関の領域の非制限性に到達し、機械は歴史的に規定された欲望の具体化にすぎないという発見のなかに、ひとつの出口、まさにひとつの出口を見出す。(……)欲望の、この共存する二つの状態は、法の二つの状態である。すなわち、一方にはパラノイア的な超越的法がある。この法はたえず有限な分節をかきたて、それを完全な事物に変え、あちらこちらで結晶化する。他方には内在的なスキゾ的法[loi-schize]があり、それはひとつの司法機関として、ひとつの反=法として、パラノイア的な法をそのすべての編成のなかで分解する〈手続き〉として機能するものである。」

124頁

隣接性=スキゾ的な法

125頁

「運動の二つの状態、欲望の二つの状態、法の二つの状態のこの共存は、(……)いかなる超越的な基準もないまま、欲望の多義的[polyvoque]な要素を調べようとする内在的な実験を意味している。〈接触〉と〈隣接〉は、それ自体が能動的で連続した逃走の線である。」