承前:準備④

スピノザと表現の問題』1968年(工藤喜作ほか訳、法政大学出版局

→ 「裁き」が原理的にありえない世界の提示。

263頁あたり
自然のなかには善も悪もない。そのため、善の理由と不可分であり、道徳律によって処理し、審判者(juge)として振る舞う神もいない。

264頁 善と悪は非十全な観念

「報いや罰という観念は行為とその結果との間の真の関係についてのわれわれの無知だけを示しているのである。(……)自然のうちに善も悪も存在しない。しかし存在するおのおのの様態にとってよい、わるいがある。善と悪との道徳的対立は消滅するが、(……)活動力の増大と減退は存在する。よい、わるいの区別が真の倫理的な差異にとって原理となるだろう。」

268‐269頁 義務の規則/能力の規範

「「身体に何ができるか」という問いには、それ自身に意味がある。(……)しかしモデルとして見るならば、この問題には法学的ならびに倫理的な意味がある。身体(その力)がなしうるすべてのことは同じように「自然権」がなしうることである。もしわれわれが権利の問題を身体の次元で提起するようになれば、われわれは精神そのものとの関係によって権利の哲学全体を変えることになる。(……)自然権の理論は能力とそれを行使することの同一性とその行使と権利の同一性という二重の同一性を内に含んでいる。「おのおのの権利は彼が意のままにできる特定の力の限界にまで及ぶ。」法という言葉はこのほかにいかなる意味ももたない。つまり、自然の法とは決して義務の規則ではない、むしろそれは能力の規範であり、権利、能力そしてその行使の統一である。」

274‐275頁 罪の由来、子供時代の弱さ

スピノザがしばしば言っているように、子供時代は無力とか束縛の状態、無分別の状態である。(……)最初の人間、アダムは人類の子供時代である。それゆえ、スピノザは罪をおかす以前のアダムを理性的、自由、完全な者とわれわれに示すキリスト教的ないし合理主義的な伝統にそれだけ強く反対するのである。(……)すなわち弱さを解き明かすものは罪ではない。罪の神話を解き明かすものはわれわれの最初の弱さである。スピノザは、アダムに関しての、体系的全体を形成する三つのテーゼを表明している。つまり、一.神はアダムに何ものも禁じなかった。むしろその果実は、もし彼がそれに接触するならば、その身体を破壊したであろうような毒であると啓示しただけである。二.彼の知性は子供のそれと同じように弱かったので、アダムはその啓示を禁止としてうけとった。彼は行為‐結果の関係の自然的必然性を理解せず、また自然の法則を侵すことのできる道徳法則であると信じたので、子供のようにそむいたのである。」

277頁 市民社会≠理想的共同体

「しかし市民状態はその法への服従いかんによって正義者と不正義者を区別するだけである。市民たちはよいものとわるいものとを判断する権利を放棄して、褒賞し罰する国会に身をゆだねる。罪‐服従、正義‐不正義は社会に固有なカテゴリーである。道徳的な対立それ自身が社会を原理とし、またそれを中心とするのである。」

280‐281頁 道徳の法/倫理の法

「倫理的な世界観において常に能力と力とが問題となり、他のものは問題とならない。法は権利と同一である。真の自然法は能力の規範であり、義務の規則ではない。それゆえ、禁止し命令する意図をもつ道徳法則は一種の欺瞞を含んでいる。つまり、われわれが自然の諸法則を、すなわち、生の規範を理解することが少なければ少ないほど、それだけわれわれはそれらを命令や禁止として解釈することが多いのである。哲学者が法という言葉を用いることをためらわねばならないほどに、この言葉は道徳的な余韻を保っている。(……)じっさい、道徳法則あるいは義務は、純粋に市民的・社会的である。ただ社会だけが命令し、禁止し、脅し、希望をもたせ、褒賞を与えたり罰するのである。」