承前:準備③

マゾッホとサド』、1967年(蓮實重彦訳、晶文社

97頁

「マゾヒストの契約の意味するものは、母親のイメージに法の象徴的威力を譲渡することにある。」

法と父の関係から脱却する戦略。母の法への服従によって一人前の男になること???

103頁 古典的な法のイメージ(プラトン

・法はより高次の原理である〈善〉に従属している。
・法は善に代わる二次的な力であり、権利を委託された力である。(善の代行者)
・法に従うことは、最良なものが〈善〉のイメージであるがゆえに、「最良」の行為となる。

105頁 古典的な法のイメージの転換(カント)

・法が善に依存するのではなく、善が法に依存するようになる。(法よりも上位の原理はなく、法は自らを基礎として築かれなければならない。)
・道徳的な法とは、内容と対象、領域と状況から独立した、ある純粋形態を表象するものである。(法はその実態が不明瞭となり、またその把握すら不可能になってしまった。)
・法は認知されることなく作用する。ひとは法の内部でいつの間にか罪を犯している。
・法の非限定性と処罰の徹底した厳密性(カントの世界観を引き受けるカフカ → 1975年のカフカ論にてさらなる展開)
・法に服することが正義にかなうことになるわけではない。逆に、厳格な法に服すれば服するほど、ますます罪深いものになる。(→ 法は裁き、罰する場面にしか現れないから。)

107頁 カント的な法のイメージを引き継ぐのがフロイトラカン

・道徳意識から導き出されるのが衝動の放棄なのではなく、衝動の放棄から生まれるのが道徳意識である。
・道徳意識の強さ、威力は衝動の放棄の強力さ、厳密さによる(何が善く、何が最良かということは参照されない)
・法の対象と欲望の対象の同一性(ex. 欲望の対象としての母、法の対象としての近親相姦)

法に対抗する戦略:イロニーとユーモア

・イロニー:より高い次元の原理をめざして法を超越し、法に二次的な力しか認めまいとする運動(サドの場合、本義的自然あるいは絶対悪の制度化)
・ユーモア:法から諸々の帰結へと下降する運動。法のこの上なく厳密な適用が、通常期待されていたはずのものとは逆の効果を生むこと(マゾッホの場合、懲罰の帰結として欲望を充足すること)