承前:準備②

「本能と制度」、1953年
(『哲学の教科書 ドゥルーズ初期』所収、加賀野井秀一訳、河出文庫
76頁

「制度はつねに、さまざまな手段の組織された一体系として現れてくる。そしてまさしくそこにこそ、制度と法との差異もある。法は、行為の制限だが、制度は、行為の肯定的な規範である。法理論は、肯定的なものを社会的なものの埒外におき(自然法)、社会的なものを否定的なものの内におく(契約的制限)が、これとは逆に、制度理論は、否定的なものを社会的なものの埒外におき(欲求)、社会を本質的に肯定的かつ創意に富むもの(さまざまの独創的な充足手段)として示そうとする。」

法:行為の制限 → 欲求充足の禁止(ドゥルーズにとっての法の原初的なイメージ)


『経験論と主体性』、1953年(木田元・財津理訳、河出書房新社
49‐50頁

「社会の本質は、法ではなく制度であるということだ。事実、法は、企てや行動の制限であり、社会に関してはその消極的な面しか考慮にいれないものである。契約説は、わたしたちに次のような社会を提示するがゆえに誤っている。――法を本質とし、前もって存在している或るいくつかの自然権を保証することしか目的とせず、契約にしか起源のない社会をである。(……)法は、それ自体では、責務の源泉たりえない。なぜなら、法律上の責務は功利性を前提としているからである。社会は、前もって存在する諸権利を保証することはできないのであって、人間が社会を構成するのは、まさしく前もって存在する諸権利を人間がもっていないからである。(……)功利性は制度に属する。制度は法のような制限ではない。それどころか、制度とは、行動のモデル、正真正銘の企て、積極的な諸手段の考案されたシステム、間接的諸手段の積極的な考案である。(……)社会とは、功利性にもとづくもろもろの黙約の総体であって、契約にもとづくもろもろの責務の総体ではない。それゆえ法は、社会的には第一にものではない。法には、その法が制限する制度という前提がある。さらにまた、立法者は、立法をおこなう者である前に、まず制度を設ける者である。」

社会にとって制度が一次的なものであり、法が二次的なものであることを示すことで、法の権威を弱めようとする戦略。