「裁きと決別するためにドゥルーズは法をどのようなものとして考えたのか」準備①

先日、立教大学で行われたアルトー生誕120周年企画を聴講に行った。アルトーを直接論じることから遠ざかっていたが、聞いているうちに頭が熱くなってきて、自分にまだアルトーへの思いがあるんだなぁと確認することになった。

といってもアルトーに間接的に関わることで、ちびちび続けている研究がある。それがドゥルーズにおける「裁き」の問題である。2013年に台湾で判例論、日仏哲学会で制度論の発表をし、2014年『流砂』に『アンチ・オイディプス』における罪責性論をやった。これは、ドゥルーズはデビューから晩年まで一貫して法や裁きへの関心があったという認識のもと、続けている研究である。アルトーといえば、彼には『神の裁きと決別するために』という作品があり、ドゥルーズはこれに関連して「裁きと決別するために」という論考を書いている。こうして、裁きと決別するためにドゥルーズは何を考えたのかという素朴な問いが浮上し、それを追っているところである。

一応簡単に整理しておくとこんな感じ。
『経験論と主体性』:制度による法の削減
ニーチェと哲学』:負債、怨恨、疚しい良心、罪責性
マゾッホとサド』:父の裁きを回避するための契約による母の法への従属、あるいは法に対抗するイロニーとユーモア
スピノザと表現の問題』:善悪なき世界における裁く法の不成立性、よい・わるいに基づく別の法の成立
『アンチ・オイディプス』:無限の負債と罪責性の世界史(オイディプス形成史)
カフカ』:審判(裁き)に対する無限の遅延、超越的なパラノ的法と内在的なスキゾ的法の差異について
ライプニッツ:悪のある世界をつくった神の弁護(「裁き」に対する「弁護」)
ロレンス:裁きのシステムを完成させた『黙示録』への批判、関係の論理学から関係の物理学へ
アルトー:神の裁きと決別するために、非有機体論

ちなみに「裁き」はフランス語で【jugement】になり、「判断」とも訳せるので、ドゥルーズもこの多義性を利用して、判断=裁きのシステムをプラトンから連なる哲学のメジャーな流れとして捉え、スピノザの哲学に対抗させていたりもする(「プラトンギリシャ人たち」)。

以上より、そこそこ複雑な問題圏なんだが、ドゥルーズがどう「法」という概念に変形を加えていって、世界の見方・在り方を変えていくかが醍醐味かなと思う。こういう大雑把な話を次回のDG-Labでやります。