フーコーと精神医学』(蓮澤優著)を読了。哲学系で久しぶりに明晰な文章を読みました。こんな文章を書ける日が来ることは自分には決してないだろうと思う。

内容としては著者自身が精神科医ということもあって、精神医学の観点からフーコーの反精神医学的な思想を内容だけでなく方法論から批判的に辿り直し、(ピネルの捉え直しなど)修正すべき点があればしっかり直していき、そしてフーコーが辿り着いた境地(自己の倫理学)と精神医学を結び直すという意欲的なもの。どの章もほんとに勉強になる。
 
ただ、気になるというか、これで良いのかと思うのが第七章の後半で、フーコーが晩年に重視したキュニコス派ストア派の〈修練〉に基づいた「自己の倫理学」あるいは「自己の技法」を精神療法として著者が捉え直すところ。
 
ざっくり説明すると、ストア派などのいう〈修練〉は師弟関係を土台にし、師は弟子を試練にかけるのだが、弟子は師(他者)を経由することで自己の自己に対する働きかけを可能にし、そのことによって他律状態(権力の支配下にある状態)を脱する実践だという。結果として自由や自律に至るそうな。
 
著者はこれを精神療法に応用できると考えていくわけだが、上記の師弟関係において治療者が〈師〉、患者が〈弟子〉となる関係を設定していく。こうして師=治療者は、弟子=患者を試練にかけることができようになるのだが、その実践のなかでは「ときには師は、暴力的な言葉すら投げかけ」ても良いらしい。
 
もちろん著者もこれが師=治療者から弟子=患者への一方的な関係になることを想定しておらず、緊張状態や関係が逆転する可能性など、師弟関係のあいだで相互作用があることを指摘している。
 
とはいえ、何の根拠があってストア派キュニコス派の師弟関係を、精神医学の治療者―患者関係にサクッとスライドできるのかがよくわからない(ストア派から精神療法へ至る歴史については確かすでに研究があったはずだが、ここでは触れられていないので、唐突な感が強い)。
 

疑問を分解するとこんな感じ。
・いったいどれくらいの精神医学の治療者がストア派の哲学に精通しているというのだろうか(治療者がストア派的な師になれると特段の検証なく言えてしまう理由とは?あるいは患者が自分の弟子になってくれると治療者が思う理由とは?)。
・治療者は自身が患者の〈師〉となるために果たしてどんな修練を積んでいるのだろうか。
・試練を乗り越えることで「治療」されるものとは何か。乗り越えることで得られる自由や自律は精神の病いと本当に関係があるのか(実践的には治癒的な意味での治療というよりはリカバリーっぽいけど...)。
・ここでいう師弟関係とはそもそもどんなものなのか。
いろいろとシンプルに謎である。
 
明晰な文章を書かれるだけに、このあたりの自己検証・自己批判されていない記述にとても面食らいますが、著者が精神科医なだけに自分の立ち位置については特権的に盲点になっていないか、ちょっと心配です(もしかすると、ここでいう「治療者」は行動療法の実践者のことで、精神科医を含んではいないとおっしゃるのかもしれません)。
 
実践的には気になるところもありましたが、現代思想の観点からは非常に有益な読書でした。

 

youtu.be