もし吹田学派なるものが本当にあったとして

先日は指導教員の檜垣先生が阪大を退職されるということで、OBらより餞(はなむけ)の言葉を贈るささやかどころではない会が開かれました。別の大学に移るということなのでまだまだ働かれると思いますが、なんにせよ阪大時代がひと区切りということでお疲れさまでした。

 

さて、そんな餞の会で出たキーワードのひとつが「吹田学派」。この言葉の起源は私の記憶によれば、小泉先生が阪大吹田キャンパスを根城とする檜垣先生とその騒がしい教え子たちの一群を揶揄して用いたのが最初だったのではなかったかと(起源は諸説あるものなので保証はできませんが、なぜかそう記憶しています)。要は「吹田学派」というのは外から名づけられたもので内発的なものではなかったのです。だから自分から名乗ったことはこれまで一度もなく、名指される私(たち?)からすると「何それ?」感がけっこうあります。

 

しかし、もし本当にそんなものがあるのだとしたら自分にとって「吹田学派」とは何だったのかなぁと振り返ると、私にとっては少なくとも「檜垣門下」の一言では括れない内実を持つものとして浮かび上がってきます。というのも、自分の大学院生活にとって吹田キャンパスとは檜垣先生だけでなく、菅野盾樹先生とその後任の村上靖彦先生の存在なしには語りえない場所だからです(実際にはそこに集まっていたクセの強い学生たちについても語らなければ不十分になりますが、長くなるのでここでは省略します)。

 

檜垣先生からはもちろんドゥルーズについてみっちり面倒見ていただいたわけですが、菅野先生から記号論を学んでいなければ今必死になって打ち込んでいるガタリ研究に踏み込むことは間違いなくなかっただろうと思います(あるいはDG-Labすらやってなかったかもしれません。というのは菅野先生は退官後、「現在思想の会」というのを立ち上げて公民館でゼミみたいな活動をしており、これに参加していた経験がDG-Labの立ち上げにつながった部分も無きにしも非ずです)。菅野先生には檜垣先生に劣らぬ学恩を感じております。

 

菅野先生の退官後、村上先生が来た頃はすでに私が博士後期だったので、授業で何か教わるということはほとんどなかったですが、「現場とともにする哲学」とでもいうべき活動の先行者としての背中を見ることで、「学問」ではなく「実践」という部分で学んだり励まされたりすることが多くありました。

 

こうして決して相性が良いとは言い切れない三者三様の哲学者たちから私は影響を強く受けたわけですが、この三者が偶然にも集まることによって発生した共通理念があるとすれば「文学部哲学科のまねごとはするな。そこからは生まれえない価値を持った問いを創造し、探究せよ!」という言葉に集約できそうです(特に菅野先生にこの傾向が強かったように思います)。言葉にするとルサンチマンっぽいですが、実際にはそんなことはなく、熱量の高い場所だったと記憶しています。

 

とはいえ、菅野門下や村上門下を「吹田学派」とは呼ばないのも確かなわけで、この言葉のシニフィエの絶妙な塩梅が面白いですね。また年を経るごとに学生の経験も変わってくるので、今の学生たちにとっては檜垣門下を適切に指す言葉なのかもしれません。また、檜垣先生の後任の人が引き継いでいくのかもしれませんし、どうなることやらですね。

 

餞の会を終えて、ふと、そんなことを思ったりしました。感慨にふけるのはここまでにして、イェルムスレウ・シンポに向けて原稿の執筆に入ります。