力能‐記号論に向けて(2)

力能‐記号論に向けて、ドゥルーズ部分の下調べは無事終了。「手応え有り」という感じ。これからメインであるガタリの方の精査に入る。こちらが厄介。

力能‐記号論に関連する部分を『対話』より抜粋。まぁ、これは論文には使わないんだけど。

欲望とは、社会的領野の中で無意識の流れが産出される際に用いられる非‐シニフィアン的な記号のシステムである。(125頁、一部改訳)

欲望。(…)ニーチェはそれを《力能の意志》と呼んでいた。(142頁)

『対話』はひと夏のお仕事のために読んでました。おもしろいのは知っていたんだけど、久しぶりに読み返したら、結構重要なことが書いてあって、刺激になりました。

私たちが多種多様な名称で呼んでいるもの――分裂分析、ミクロ政治、語用論、ダイアグラム主義、リゾーム学、地図作成法――は諸々のグループあるいは諸々の個人における、これらの線の研究以外の対象を持っていない。(195頁)

「これらの線」というのは、「堅い切片性の線」、「しなやかな分子状の線」、「抽象的な線(逃走線)」などのこと。『千のプラトー』あたりのスキゾ分析論をどう考えればいいのか悩んでいたが、この一文のおかげで糸口がつかめた。半歩前進!

次の文章も〈スキゾ〉を扱う限り、よく考えないといけないですね。

私たちにとって分裂症者は真に革命的なものだったのだ、と私たちは言わされてきた。(214頁)