やべ~、なぜだか全然眠れへんわ……仕方ないので何か書くか。

もうすぐ読了。

フロイトの『トーテムとタブー』の原父殺しの神話的起源の仮説のありえなさを人類学の立場からビシバシと論証していく研究(初版1927年)で参考になります。ある意味で『アンチ・オイディプス』の先駆け。とはいえ、論証に使われる資料や考え方が古さを感じさせるものでもあるので真に受けることはできないか。

 

こっちは上巻読了。

で、このなかでラカンオイディプス・コンプレックスが人類史の起源となる現象ではなくごく最近の現象と明言している(42-43頁)。ちなみにこう言ってしまうことで上記のマリノフスキーの批判そのものが効果を無くすので、ある意味では厄介な発言でもある(オイディプス・コンプレックスは最近のものという発想は『アンチ・オイディプス』にも登場するが、ラカンの発言とどれくらい関係があるかは不明)。

ちなみにこのときのセミネールにはガタリも通っていたはずで、ところどころにガタリに影響を与えたとおぼしき発言が見られておもしろい。例えば、

機械とは、主体の活動から切り離されているかぎりでの構造です。象徴的世界とはまさに機械の世界です。(77頁)

ガタリは機械を象徴界ではなく現実界におく点でラカンとは対立しているけど、発想の源泉はこのセミネールだったのだろうか。他にもガタリとの関係でおいしい論点がいくつか出てくるのだが、クリティカル・ヒットになるほどのものでもないかなぁ。注には書けるけど本論で論じるほどではない、という小ネタ感……はがゆいわ~

 

さ、そろそろ眠れるか……